国にもう一矢打ちこみたい

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(毎日新聞) – 5月1日10時17分更新
水俣病公式確認50年を前にした30日、水俣ではもうひとつの「慰霊式」が行われた。水俣病1次訴訟(69年提訴)に加わった患者らでつくる水俣病互助会などが主催した「水俣病事件74年を問う集い」。水俣病の原因企業チッソが、アセトアルデヒド製造を始め、触媒として水銀を使い始めた日を「苦しみの始まり」と位置づけた。【山田宏太郎】
「妹にとっては苦しみだけの50年でした」
集会は熊本県水俣市で開かれた。56年5月1日の水俣病公式確認時、水俣保健所に報告された患者、田中静子さん(当時5歳、故人)と実子さん(52)=当時2歳=の姉の女性(62)は、涙ながらに一家の悲劇を語った。偏見に苦しみ続け、半世紀を経て初めて地元で口を開いた。ほかの未認定患者らも口々に苦悩を訴え、関西訴訟最高裁判決後、高まる被害者完全救済の声に耳を貸さない国に怒りを新たにした。
「裏庭が海のような家」で幼いころを過ごした。目の前の海で取れる魚やカキを食べて暮らした。公式確認患者となった2人の妹と同じ家で育ったこの女性は、今も水俣病患者として行政認定されていない。手足のしびれなどの体の不調を抱えながら、重症患者である実子さんの介護を続ける。実子さんは今も夜になるとひどいけいれんを起こす。「(妹は)ほとんど眠ることがなく、体重も20キロちょっとしかない」という。
「普通の楽しい生活をしていました。そうしたら静子が歩くことが出来なくなった」
静子さんは、亡くなるまでの2年8カ月、何も分からず泣き続けた。「病院で『迷惑になる』と言われおぶって屋上に行った。母は『ここから飛び降りて親子3人で死のうか』と言ったが、父が止めた」。それから1週間後、今度は実子さんの歩き方もおかしくなった。当時「伝染病」と疑われ、一家は孤立し親せきも寄りつかなくなった。女性がそう語ると、会場からすすり泣きが漏れた。
実子さんは今も食事は流動食で、水さえも少しずつしか飲めない。2人がかりで風呂に入れる。「実子は友達もいない、何の楽しみもなかった」。3日は実子さんの53歳の誕生日。いつものようにケーキで祝うつもりだ。
集いには、水俣病関西訴訟の川上敏行原告団長(81)も参加した。川上さんは最高裁で勝訴を勝ち取ったが立場上は女性と同じ未認定患者。
「認定申請は33年間も保留のまま。私はまだ『ニセ患者』ということなんです。現在認定申請中の三千数百人のためにも、生きているうちに国にもう一矢打ちこみたい」と怒りをあらわにした。

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